近大前監督の田中秀昌氏(67)が、日本高野連の技術振興委員に26日付で就任した。高校野球界の振興やマナーの向上、高校日本代表の選考や指導陣の人選など、活動範囲は多岐にわたる。

田中氏にとって、高校野球は古巣。1985年に母校・上宮(大阪)のコーチになり、1991年に監督に。2003年に東大阪大柏原の監督となり、2014年4月に近大の監督に就任するまで高校野球の指導者だった。上宮では元巨人の元木大介や広島のレジェンド黒田博樹ら多くの教え子を育成。東大阪大柏原時代は、11年夏に同校を初の甲子園に導いた。

全国レベルの強豪だった母校で実績を残しただけではない。選手たちと一緒に苦労しながら、実績のなかった東大阪大柏原を大阪の強豪に変えていった。石川慎吾(日本ハム-巨人-ロッテ)というしぶとい選手をプロに送った。

石川は面白い高校球児だった。主将になる前から、自分の考えをはっきりと口にした。強気で明るいキャラクターとは裏腹、11年夏の大阪大会決勝で大阪桐蔭にサヨナラ勝ちした時はグラウンドに前のめりに倒れ込み、頭を抱えて大泣き。ユニホームがなければ、負けた大阪桐蔭の選手と区別がつかなかった。3年秋は後輩の試合の5回終了時にトンボを持ち、率先してグラウンドを整備。部活を引退しても、キャプテンだった。

そんな石川を支えていたのが安達翔平マネジャーだ。試合時は「お前ならいける!」「魂込めろ!」という安達の絶叫が球場に響き渡った。スコアブックをつけている最中も叫ぶ。声も戦力なのだと実感した。「練習試合で相手の監督から『うちに転校させてもらえませんか』と言われたこともあった。野球は上手やなかったけど、それ以外で貢献してチームにインパクトを与えた。そういう子っていてるんやなと思いました」。田中氏にとって忘れられない教え子の1人だ。

学校にとって快挙が重なった2011年。さらに田中氏がうれしかったのは、社会人野球に進んだ選手が多かったこと。大阪ガスや東芝、JR西日本、三菱重工名古屋、日本製紙石巻など一流企業が持つチームの一員になり、野球を続けた。後輩も続いた。JR北海道や日本新薬、ミキハウス、東海理化などで活躍。「これはうれしかった」と田中氏。野球の技量以外でも信頼され、受け入れてもらえた証だった。

高校野球を知り尽くした指導者が戻ってくる。新基準の金属バット導入や夏の甲子園大会の2部制実施など、100年を超える歴史が転換点を迎えている。次代をつくる手腕に期待したい。【堀まどか】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)